もっとも不愉快なことは、最大の敵が面と向かって述べることではなく、最良の友が陰でこっそりささやくことである。
たとえ正しい道の上にいるとしても、そこにただ座っていれば車に轢かれてしまうだろう。
使ったところが強くなる。頭でもからだでも。
「陰口はいけない」と、よく聞きますが、自分は陰口を言わないので、どんな悪影響を被るのか知りません。自分が言うのではなく、人に陰口を言われていることって、あるのかもしれないけど、どうも人のうわさとかに疎いので聞こえないのです。聞こえてきても、あまり気にしないでしょうけど。
陰口は言わないけど、人にまったく意見しないわけではなく、面とむかっては、けっこう言ってます。若いころから、どんなに偉い人にでもズバズバ言ってしまう方だったので、陰でブツブツ言ってる人より、よっぽど扱いづらい奴だったかもしれません。
サラリーマン生活20年を越えた現在でも、基本的にはズバッと言う姿勢は変わらないのですが、ひとつ憶えたことがあります。
「人は、立場上、やむを得ず言わなければならないこともある。」
ということです。
本意ではないけど、組織の立場上、厳しいことも言わなきゃならない…みたいなやつです。
若いころは、人格が言ってるのか、立場が言わせているのか区別がつかなくて、気に入らないことには噛み付く人間だったけど、近頃はわりと、区別がつくようになりました。
まあ、上司の文句は酒の肴、サラリーマンのストレス発散とも言われますから、度を越さなければ許されるんじゃないですかね?
話は変わりますが…
「たとえ正しい道の上にいるとしても、そこにただ座っていれば車に轢かれてしまうだろう。」
この言葉で、思い出したシーンがあります。
以前、ミクロネシアのポナペ島に取材で行った時のことです。
街の中には、車が走り、それなりに近代化されていましたが、ちょっと田舎に行くと、川でうら若き乙女たちがハダカで水浴びや洗濯をしていたりします。
一瞬、見てはいけないのかな?と思いますが、向こうから手を振ってきたりします。オッパイぷるんぷるんさせながら。
なんとも、のんびりした島なのですが、ポナペで究極の「のんびりじいちゃん」と出会いました。
毎朝、7時ごろ、僕たちは取材に出かけていました。じいちゃんは、その時間にはもう自宅の玄関先にすわって海を見ています。
はじめは、なにかを監視しているのか?と思いました。
でも、毎日、同じ場所で、あぐらをかいて、ただ海を見ているのです。
朝だけではないんです。
昼飯時に見ても、取材が終わって夕方に見ても、同じ場所で、同じ姿勢で海を見ています。
夜にはいなくなりますから、生きているのは間違いないんですが、おそらく毎日10時間以上、海を見て過ごしているじいちゃん。
何を思って、そうしていたかは謎ですが、秒の単位でせきたてられる僕の一日と、海を見つめるじいちゃんの一日が、同じ24時間だとは信じがたい思いでした。
じいちゃんは、何もしてないのに、僕よりリッチな時間を過ごしているような気もしました。
「たとえ正しい道の上にいるとしても、そこにただ座っていれば車に轢かれてしまうだろう。」
僕の人生はそうかもしれません。
でも、あのじいちゃんの人生は、この言葉を超越していましたね。